poni uliuli

"さるめさんの手"という名前でボディワークをしています。

今日の空

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白馬生活も残り一か月を切った。

私は相変わらず、一か月先にどこで何をしているかわからない暮らしをしている。数年前までは”一年後にどこで何をしているか”だったのにどんどんスパンが短くなってしまった。確か半年前までは『せめて三か月先位はわかっていたいな~』なんて言っていたのだけど、慣れてしまった。

不安とお任せのバランスが取れて来たというか、コントロール外に面白いことがあると知ってしまったというか、もがいたりあがくほど面倒な事が起こることも経験してしまったというか。とにかく、今はただ大きな目的地を静か心に描いて、細かい事は成り行きに任せている。そんなしなやかになったのも、「誰にどう思われるか」が気にならなくなったから。

普通とか、恥ずかしいとか、情けないとか、劣っているとか優っているとか、こうあるべきとか、こうすべきとか、誰かや何かと比較することによって安定しようとする心の働きがもうほとんど無くなってきているのだと思う。今の連続。

 

恐らくこのまわりを気にしなくて良い安心感は家族に別れを告げたことも大きく関係している。

ゲームの「ポケモン」ってあるでしょ。受験や就職で戦っていたのは、私じゃなくて私の「ポケモン(社会に適応するためにつくられた自分)」だったんです。成功しても、それは私ではなく私の「ポケモン」が成功しているだけなので、うれしくないんです。私だけでなく、ほとんどの人がそうなんです。子どもは親の「ポケモン」だし、戦っているのは、その子自身の「ポケモン」なんです。

 

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私がいつも心がけているのは、どんな時も自分の感覚に気が付いている(意識を向けている)ということ。キーボードをたたいている今も。

首が固くて少し熱を発生させているような硬さだなとか、呼吸のリズムや胸郭全体の広がり方とか、足の裏はいつもビリビリするとか、些細な感覚。

 

意識と現象の仕組みは面白いほどシンプルに出来ている。

【感覚】と【感情】が結びついて潜在意識下に蓄積される。

ある一定量、その意識が溜まると顕在化する。

【感覚】と【感情】が結びつかないように、それぞれに気づき観ていることができれば(つまり常に今にいることができれば)、意図しない【潜在意識】の集合体は蓄積されないので、意図しない事が顕在化されることはなくなる。

それどころか、この仕組みを再利用して、どんな感覚の時も(疲労や痛みなどの快とは違うものだとしても)「平穏」や「愛で満たされた状態」「人の幸せを心から願う心」を保つ(思い出す)ことができれば、それが潜在意識に蓄積されて、のちのち顕在化する。

 

さらにさらに面白いのは、私たちすべてが集合無意識として繋がっているということ。

つまり、自分が修行すれば大きなインパクトではなくとも集合無意識に働きかけることができる。これってすごい!そう感動してから余計に、心配したり世間を気にすることが減っていったように思う。

 

羯諦羯諦

行こう、行こう、

 

波羅羯諦 

とらわれのない世界へ行こう

 

波羅僧羯諦

素晴らしい所へ行こう

 

菩提娑婆訶

全ての人に幸あれ。

 

「菩提娑婆訶」生きとし生ける全てのものの幸せを祈る為に生まれてきたのなら、

私の生活やプロジェクトがうまく行こうが失敗しようが、形になってもならなくても、困難に見舞われても、人に誤解されても、つまりどうしようもない自分でしかいられなかったとしても、「菩提娑婆訶」を感じていさえすれば〇なのだ。道がつづいていくだけだから、失敗という概念も無いのだと思う。

 

 

今日は、山がとても美しくて、空が青くて、こんな景色を見る事が出来て幸せだなと心が潤った。

圧倒的な自然を観て感じるこの瞬間を大切な人と共有できたらもっと良いのに、、と、この世にいたりいなかったりする、私の心を潤す大切な人達のことも想い、少し切なくなった。どんなに離れていても関係しているという繋がりの感覚と、いつも独りだという個の感覚が共存している。

寂しかったけど、嘆くでもなく、感動したけれど昂るわけでもなく、

全ての生きものの幸せを口ずさんだ。

 

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私さえいれば「慈悲の家」は今も完成されている。(と、自分では思っている)

だからこそ、その先に進む為に

 

少し大がかりな改修も可能な家と

改修&運転資金(の調達方法)と

0から1が始めるための仲間を、強く求めている。