poni uliuli

"さるめさんの手"という名前でボディワークをしています。

『誰でも何かが足らんぐらいで この世界に居場所はそうそう のうなりゃせんよ』

実はこの一か月、あまり調子が良くなかった。

仕事が忙しかったのもあるし、なんだか良くわからないトラブルによって他人の感情や粗い振動の影響を受けていたこともあるし、過去世からの再会にときめいて純粋な愛と執着との違いを自己観察していたこともあると思う。

 

何でもない日常の毎瞬が奇跡だと感じられる豊かさと

生まれて来たことの意味や目的に行動や生活を添わせ命を活かすベストを尽くす事

それが完全に一致するまで、ゆらゆらと調整していくのだろうと思う。

自分に正直に正しい言葉をつかうことを頼りに。

 

 

『誰でも何かが足らんぐらいで

この世界に居場所はそうそう のうなりゃせんよ』

 

混沌の中で揺らぎながら淡々と命を燃やした人を描いた映画「この世界の片隅に

遊郭で生活をするリンが主人公すずに向けたこの台詞が特に好きだ。

konosekai.jp

戦地に向かう幼馴染水原が言った『普通で、まともでおってくれ』

いつ死ぬか、何のために戦うのか、慣れたくないものにも慣れていく自分の変化(というか麻痺)、生きていてもどんな目に合うかわからない、戦況、価値、街、激しく変わり続けることだけが変わらない時代。普通でまともで、こどもの頃から変わらない部分を持ち続けているすずの存在が微かな希望となり、記憶やその集合体である心の中に居心地を求めたのかもしれない。

 

『普通』という言葉はあまりにも多くのものを含んでいる。

個人の経験や生活範囲の中で『普通』なことを【the普通】、未体験やちょっとした推測や普遍的なこと全てを含めているつもりのときだけ【普通】と言うようにしたらどうだろう。『私の常識は他人の非常識・未常識』というギャップに出くわす体験の蓄積が視点を増やし、対話を可能にし、思いやる心とその余裕を育んでくれるのではと思う。

 

普通なんてどこにも無いんだから、

水原の様に、願いや希望として、最高の誉め言葉として、安らげる間として『普通』という言葉を再定義したい。

 

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空襲で亡くなった姪っ子の『笑顔の器』として生きていくことを決めたすず。

 

宇宙で唯一の存在である私(そして全ての個人)は

現世の自分以外の記憶や祈りをも繋いでいく記憶の器

 

初めてなのに懐かしい景色

何かを思い出しそうな風の感触が

変わらない山並み

人間には創り出せない森羅万象が

もう会えない人たちとの思い出が

 

困難や非情を越える、生き続ける力を

助けてくれているように思う。

 

だから大丈夫。