poni uliuli

"さるめさんの手"という名前でボディワークをしています。

強く柔らかに

転生を越えた再会があった。

 

こんな話をするとまた変な人だと思われる、と思っている自分がいる事に気が付いた。もともとこのブログは”自分はこのままで良いよ、変でもなんでもそれが私で、それはセンスなんだ”と堂々とあるために始めたので書いてみる。

 

数年前にオアフ島に行ったときに、keaiwa heiau というその土地で大切にされてきた、寺院や医学校でもあった場所に行ってきた。なぜだかどうしても行きたかった場所で、弾丸ハワイ毎日サーフィン、の最後の最後にたっぷりと時間をとって、お祈りをして、少しだけ歩いてぼーっと座って時間を過ごした。たまたま腰かけた樹の下で、私はここにいたことがある。という感覚を得た。わたしは女性でひとりの男性とここで待ち合わせをしたり、勉強をしたり、休んだりしていた記憶。

 

「今日も太陽は元気だね」

『そうだね、いつにも増して元気だ。暑いね。』 

「この間到着した舟、もう見に行った?おじいさんの船乗りが一人いるんだけど、彼は雪と氷の土地にいたことがあるらしいよ!」

『へえ、それは会って話を聞いてみたいな。』

「雪や氷の大地で感じる太陽や火はどんなんだろうね。」

『全く違う気もするし、同じように幸せを感じるような気もするし。』

「いつか、雪の土地で待ち合わせをしようか?」

 

南の島の日差しをよけて、いつもの木陰で座っていた私たちはこんな話をしていたかもしれない。

 そして何年何世代越えたかはわからないけれど、約束通り、雪景色の中で再会した。

 

 

彼は私をstorong womanだと言った。

「それって良い意味?弱く見えることも必要じゃない?」と聞くと、

 

「storongで soft、水の様に大きなパワーを持っている。山を這う事もあるし、形を変えることもできる水。柔らかく圧倒的な強さということだよ。男化するでもなく、守ってもらう為に弱くなるでもない、強い女性」と言ってくれた。

 

そういようと思う。

背景色を共有する

目標にしていた100日ブログ更新が途絶えてしまいこの数日心残りを感じて過ごしていたけれど、淡々と再開するしかない。そして何となく、ブログタイトルを好きな色の名前に変えました。ハワイ語からPONI(紫)とULIULI(海や山、自然に存在する青)。

 

最近感じているのは、同じ空間、同じ時間に肉体が存在していても、全く違う世界を生きているとうい事が有り得る(しかも大いに!)という事。

 

何を観て、何を聴き、何を感じるか。

それをどう受け取るか(又は受け取らないか。ただ感じるだけということ)

肉体、感情、思考、心持ち、自分自身や言葉をどう扱い、他者とどう関係するか。

 

ありのままを認識することと、それを表現したり伝達することは密接に関わりあっていながらも、それら能力を発揮するための作業領域が全く違う。言葉のコミュニケーションや表現する為の様々な手段をまだ十分に習得していない幼い子供が見て感じているものを、大人になってしまった人間が認識できていない場合も多いと思う。その認識のずれやすれ違いは、大人とか子供とか言語の違いに関わらず起こりつづけている日常でもある。

 

だからきっと、冷たく強い風が吹く中で春の日差しを感じて「あったかいね」と言ったとき、「太陽が高くなったよね」とかえってきたら、【ああ、今この瞬間、同じ世界を共有している】と、分かち合う、心通い合う喜びを感じることができる。「寒いよ~。今日は風速〇〇メートルって天気予報で言ってたし。凍えちゃうから店まで急ごう」と返ってきたら、そうかあなたの世界はそうなのか。と”違い”を知ることになる。

コミュニケーション(communication)の語源は、ラテン語のコミュニス(communis)すなわち共通したもの、 あるいは共有物(common コモン)と言われている。これは、コミュニケーションの本質を理解する上で重要なことである。

コミュニ ケーションは、したがって、「時間的位相における推移のなかで、情報やデータが『共通のものとなる』という現象一般」のことと定義することができる

コミュニケーションの定義:Definition of Communication

”会話のキャッチボール”とよく言うけれど、コミュニケーションとはキャッチボールが行われているその場所自体、フィールド、大地、土台、面、なのかもしれない。 

 

gigazine.net

80カラーチップが並べられた表において、暖色と寒色は同じ量だけ存在します。しかし、多くの言語において、寒色と暖色を細かく分類すると暖色の方が色数が多くなり、ゆえに「青」で表されるチップの数は「黄色」や「赤」で示される数よりも多くなるとのこと。ここから、人は暖色から優先的に名前を付けていったのだと研究者らは結論づけています。

この理由を探るため、研究者らがMicrosoftによってラベルが付けられた2万枚の画像からなるデータベースを解析したところ、多くの画像において暖色は写真の前景に使われ、寒色は背景などに多く使用されていることがわかりました。つまり、空や森といった背景に使われた寒色ではなく、それらの前にある暖色の「モノ」と人々は関わりを持ち、他人との話題に使ったため、優先的に暖色に名前が付けられていったというわけです。

言語や色の名づけだけでなく、生き物によっても色彩認識も違うし、緑青紫と波長の短い光の区別はより曖昧にグラデーションになっている。

 

この地球上で最もカラフルな世界に生きているものは何だろう?と考えたり

山並みと空、湖や海の青、自然界に存在する紫、それら色の機微をいつも新鮮に感じていたい。

 

全く同じではなくとも、カラフルな世界を生きる人と時間や感動、日々の暮らしを共有し、言葉やアートや温もりや微笑みを使ってそれらを伝え合いたい。

そんな風に思う。

Follow the sun

今シーズン、白馬に来ています。海外からの旅行者が8割9割だとは聞いていたけれども、集中して旅費や家の改修費用を貯めるなら住み込みかな~、一日のうちのほとんどを仕事に割くのならタイマッサージなら良いな~なんて、それくらいで来てみた結果、英語トレーニングになっている。ちょっとしたワーホリ。だいぶ耳が慣れてきたが、何分文法とか単語とかを知らなすぎる。日常でよく使う接客会話だけ慣れて上達した気になっていてはいかん!と先月、薬膳の学校のスクーリングで東京へ出た際に「100%会話するための英文法」「単語1100」みたいな本を購入。5月6月をギリシャで過ごすために、これから待っている誰かと話すために、何者かが私を先導してくれているかの様に環境は整っている。

「ひとりで海外旅行に行っても色々なんとかできるけど、英語だけで友達をつくれはしない、そんなレベルです」と自分の英語力を説明してきたが、施術前のヒアリングを英語でしたり、電話で予約の調整をしたり、つい数日前はブッキングミスのトラブルで謝罪も和解もできた。知り合った友達とは、イルカの知能と生態の不思議や、過去生からくる肉体のトラブル、エネルギー体の自己治癒方法、自分の真実に従うことについて、樹やアニマルのスピリットについて、これからの10年はどう過ごしたい?なんて事を話せている。。。あれ?話せている?言語習得以前のコミュニケーションの力でもあるけど、追い風は吹いている。がんばれ自分。

 

さてさて、春が来たら私はどこで何をしているでしょうか。

 

"Follow The Sun"

Follow, follow the sun
And which way the wind blows
When this day is done
Breathe, breathe in the air
Set your intentions
Dream with care
Tomorrow's a new day for everyone
A brand new moon and brand new sun

So follow, follow the sun
The direction of the birds
The direction of love
Breathe, breathe in the air
Cherish this moment
Cherish this breath
Tomorrow's a new day for everyone
A brand new moon, brand new sun

When you feel life coming down on you like a heavy weight
When you feel this crazy society adding to the strain
Take a stroll to the nearest water's edge, remember your place
Many moons have risen and fallen long, long before you came
So which way is the wind blowing
What does your heart say

So follow, follow the sun
And which way the wind blows
When this day is done
 
Xavier Rudd

 

youtu.be

センタリング

ひとまず2週間、更新を続けられている!少し続けてみてわかってきたのが「このブログは暮らしや生命活動・精神活動の雑記です。」ということ。誰かに情報を提供しようとか、役立ててもらいたいとか、伝えたいとか、広めたいとか、何なら見てもらいたい知ってもらいたいと全く思っていない。あるとすれば、映画『コンタクト』の主人公が子供の頃から宇宙へ向けて「私は地球という星のここにいます」と呼びかけ続けていたような、火星人はネリリしキルルしハララしているのかな?と思いを馳せ友達を欲しがったりするような、そんな発信をしていたいと思う。

「私がいる世界は私にとって生きにくいなあ」と”〇〇らしさ”という学校や家庭や世間の評価と格闘し、大切な人を失い、挫折し、人生を中断し、癒され、おまけの道を再び歩き始め、旅に出たり、生活拠点を新しくしたり、失恋したり、家と別れたり、転々としながらもなんとか無事に(しかも自由に)生き残っていますよ。という現状報告が、これを見つけたサバイバル真っ最中の誰かの心の灯になれたら良いなと思う。

 

いるかいないかわからないけど、たまに除きに来てくれているあなた、ありがとう。

 

 

ここ数日はブログタイトルを変えようか検討中。一日のうちくだらない事も結構真剣に考えていたりもするので、そのしょーもない考察を本名で記録していくのはどんなもんかと思ったりするわけで。

最近でいうと、久々にタイマッサージがメインの毎日に戻ってきている。タイマッサージは本当に気持ちが良い、足先から上に向かって指圧が登っていく、レシーバーは全身の隅から隅まで意識を向けていくことができる。鼠径部を圧迫し体の中に力強い流れを感じる。全てすでにあったもの、意識を向けやすくする、活発にしたり、本来の可動性を確認したり、静めたり、単純にいうとそんなことが起きている。そしていつも気になってしまうのは、おちんちんを手で踏んづけてしまう確率。大方は経験値と透視能力で100%の「いける!」感を持ってベストオブ鼠径部を抑えられる(又は、最も安全で効果的な手の置き場をみつけられる)のだけど、タイパンツの布質や形状、皺が寄っていたりの理由で「ム?ムム?」な時もあるわけで。。。私は生まれてこの方一度も男性にはなったことがないので、踏んづけたらどれくらい痛いのかとか、どれくらい横っちょにきてしまうものなのかとかよくわからない。その為時に不本意ながらもベストオブ鼠径部のエリアに入る事も無く、足先へ撤退という決断をせざるを得ない。家に帰るまでが遠足、登ってまた生きて帰ってくることまでが登頂、置き換えるなら鼠径部圧迫は準備運動、点呼を取りながら列を作っているような段階だ。そこで引き返すなんて残念無念。タイマッサージを通した自分自身へ還る時間に集中できる様、是非ともおちんちんがついている方々には仰向けになった際にポジショニングの最終確認を行っていただきたい。「タイパンツのはき方はご存知ですか?」「それでは仰向けになってお休みください」と説明すると同時に何の違和感もなく、機内アナウンスの様に程よいルーティン感のBGMとしてセンターへの配置を呼び掛けたい。もしかしたら4年後ぐらいにはAIの応用によって〈左寄せ〉〈中央寄せ〉〈右寄せ〉の選択も容易になっているかもしれない。(偶然を装ってマットが揺れるとか、「カンキノジカンデス」とか言って突風が吹いたり。)もしも何らかの理由で、タイマッサージを受ける前にこの記事に辿り着いたあなたは、参考にしてください。

記憶の器、大切なことば

 

 今朝友人に連れられて行った小さな珈琲やさんに、大好きな星野道夫さんの本が置いてあった。ちょうど昨日、クジラのジャンプの事を考えていた。星野さんやその友人の目の前で、いつの日か宙を舞ったクジラは今どこかにいて、私が想いを馳せていることを知っている。なぜだかそんな気がしていた。

 

 

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『ナヌークの贈り物』で、氷の世界の王者である白熊のナヌークが少年に語り掛けた、かつては人もつかっていたという共通の言葉。私は今日偶然、星野さんの写真、言葉、アラスカやイヌイットカムチャッカの人々の在り方に再会したことで、

これは、昨日私が語り掛けたクジラ、さらにいうとそれよりも遥かに大きな生命の環からお返事が来たのだと、期待でも妄想でもなく確実にそう受け取った。

 

人間の嘘や表層の言葉に混乱し、自分自身に正直でいることしかできなくなってしまった、決してうまくやってきた訳ではないこの一年。

笑われ、おかしいと思われ、ネタにされるかかの様に根ほり葉ほり聞かれても、大きな進路変更を余儀なくされても、不安に直面しても、私の真実と共にい続けて良かった。

これからも、このままで。

 

山や水や風が語りかけてくる。

あなたのしごとをしなさい、しつづけなさい、心地良くいなさい。

 

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ただぼくは
初めて森に降った雨のときより
たくさんの記憶をもっていた

大きな木の根がふっくらと抱きかかえていた土や
ひっそりと生した小さなコケのあいだは
たくさんの生き物たちのすみかになっていて
そこのみんなと話をしたことを覚えている。

川のなかのコケだったぼくを食べた魚は
魚の形をしていたけれど
それはたくさんの
意識と記憶の集まりのようなものだったのかなぁ。

 


その記憶の始まりってどこ?
一粒の雨?

それとも
もっとずっと前?

 

じゃあ“ぼく”の記憶の始まりはどこから?

 

記憶は
意識が始まる前から そこにあったよ。

 


『一粒の雨の記憶 A raindrop's memories』より
やまさきあおい [著]
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youtu.be

 

 

もっと聞きたい方はこちらも ↓

【あらえびす活動】水の仕組みから経済の仕組み地球の仕組みまで。【拡散希望】 - YouTube

温泉で復活

体を労るべく、温泉へ。

肉体、心、魂(エネルギー体)それぞれの段階で、癒やされる為の振動数が違う気がする。
街場のマッサージでグイグイ押されたい温もりで触れられて楽になる肉体、気の置けない友人と過ごして精神的な荷物をおろして楽になる心、
そしてエネルギー体や魂は"存在"そのものに触れる必要があるのだと想う。温泉を通して伝えられるパワー、生の演奏で伝えられる振動、山や陽や海という圧倒的なもの。

全身全霊で"抱きしめる"という行為は肉体・心・魂、全てを癒し労っているかもしれない。

この冬を乗り切ったら、暫く静かに座りたい。それかガサガサしてない人々の中で少しチャージしたい。

調整中

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よく泣くし、よく笑うし、ぼんやりしてるし、すぐにどこかに行ったりする。
人は好きだけど、一人でいる事も大好きだ。
幸せだなあ、とじんわりした気持ちによくなるし、
周りの様子を感じとる力が鋭いので、大変なときもある。

イライラした人が乗っている車が自分の後ろにいたり、横を通り過ぎるだけで、
和太鼓のライブに行った時の様に振動的なものを感じる。
電磁波も。

去年、コンビニでバイトをしてみたら
『あ、、私が渡り鳥だったら、もう故郷に戻れなくなるやつだ。』となってしまった。
どんどん出来ない事が増えていく。

もう他人の植民地ルール(すべき、普通は、○○なら当然)にも合わせる事は出来ない。


悲しみの淵に行って、孤独の岩に長いこと座り、自分を殺して生きてきた自分を赦しの大地に安らかに埋葬し、おまけの人生を歩き始めた。

あの場所を出発してからもう四年になるのか。


どうやら、私がボーナスステージだと思って生きてみた延長戦が、本筋へのウォーミングアップだったみたいだ。