記憶の器、大切なことば
今朝友人に連れられて行った小さな珈琲やさんに、大好きな星野道夫さんの本が置いてあった。ちょうど昨日、クジラのジャンプの事を考えていた。星野さんやその友人の目の前で、いつの日か宙を舞ったクジラは今どこかにいて、私が想いを馳せていることを知っている。なぜだかそんな気がしていた。
『ナヌークの贈り物』で、氷の世界の王者である白熊のナヌークが少年に語り掛けた、かつては人もつかっていたという共通の言葉。私は今日偶然、星野さんの写真、言葉、アラスカやイヌイットやカムチャッカの人々の在り方に再会したことで、
これは、昨日私が語り掛けたクジラ、さらにいうとそれよりも遥かに大きな生命の環からお返事が来たのだと、期待でも妄想でもなく確実にそう受け取った。
人間の嘘や表層の言葉に混乱し、自分自身に正直でいることしかできなくなってしまった、決してうまくやってきた訳ではないこの一年。
笑われ、おかしいと思われ、ネタにされるかかの様に根ほり葉ほり聞かれても、大きな進路変更を余儀なくされても、不安に直面しても、私の真実と共にい続けて良かった。
これからも、このままで。
山や水や風が語りかけてくる。
あなたのしごとをしなさい、しつづけなさい、心地良くいなさい。
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ただぼくは
初めて森に降った雨のときより
たくさんの記憶をもっていた
大きな木の根がふっくらと抱きかかえていた土や
ひっそりと生した小さなコケのあいだは
たくさんの生き物たちのすみかになっていて
そこのみんなと話をしたことを覚えている。
川のなかのコケだったぼくを食べた魚は
魚の形をしていたけれど
それはたくさんの
意識と記憶の集まりのようなものだったのかなぁ。
その記憶の始まりってどこ?
一粒の雨?
それとも
もっとずっと前?
じゃあ“ぼく”の記憶の始まりはどこから?
記憶は
意識が始まる前から そこにあったよ。
『一粒の雨の記憶 A raindrop's memories』より
やまさきあおい [著]
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